昭和40年10月29日 朝の御理解
有り難いやわらいだ心で過ごしたい。皆そういうふうに思われるだろうと。いうなら、一日をニコニコとして過ごしたいと。またそれが人間の、幸せでもあると言うことを。ところが世の中というものはそんなに甘いもんではないと、とそう思い込んで、そのニコニコとして過ごす、有り難い和らいだ心で過ごすと言うことに、本気で取り組もうとしない人がたくさんある。
皆さんどうでしょうか。日々を有難い和らいだ心で過ごせたら、これが幸せだというふうに日々をニコニコとした暮らが出来るなら有難いんだけれど、ね、人間の生きて行くと言う事はそんなに見やすいもんではないと。日々をそんなに生やさし、易しいものではないとそう分かりながら、又そう心に思い込んで居る様な人が殆どではなかろうか、そしてその事に本気で取り組まない人が、これは信心があってもそうなる。
もう不平不足を言う事ばっかり、何時も腹立てておらなければならない、もう腹の立つ、立つような事ばっかり。何時も心配になるような事ばっかりが自分の周囲にもう満ち溢れておるのだから、そんなに生易しいもんではないと、思う。そう思い込んでしもうておったら、私は信心の精進、信心の本当のおかげには触れんなりに信心頂いておってもしまえなければいけんと。
そこん所を段々、私は狭めて行く生活。ね、自分の周囲から不平不足やら、腹立たしい事やら、ね、何時も苦虫を噛み潰したような表情をしておらんでも済むようなおかげを頂くためにです、私共本気でその事に取り組まなければいけない。信心しおりゃ何時かよか事が来るじゃろう、何時かニコニコしと、しい通しにしておられる様なおかげが如何にもこうやって来るようにまぁ安易は思い方は間違えである。ね、
なるほど日々をニコニコとし過ごさせて頂きよりゃ幸せだと。有り難い和らいだ心で毎日を過ごせば有り難いだろうけれども、そんなわけにはいかんと、厳密に自分の心を一つ検討してみてご覧なさい、そういうようなものが、そういう思いが本当の信心生活を阻んでおるというような事がありあせんだろうか。何時も目玉ぎょろぎょろと、こうぎょろこうつかせておいて。
家内やら子供やらが、何時もぎょろつかせとかんと、その軽く見られるように思うておる。一般の者でも、ちった威厳のある顔してから、苦い顔でもしとかなきゃ、付けこまれる、そしてもう、いよいよこれではいけないですね。本気で私はそのことに取り組ませて頂くと言う事。所が実際やはり、そうニコニコとするようなことは少なくて、苦い顔せんならんような事がそのあまりにも多い事も事実であるけれども、ね、
信心させて頂く者はそこが有り難いのである、そこが段々変わって来るのである。今朝から、『洗心洗脳』と言うことを頂いた。洗心とは心を洗うと言うこと。洗脳と言うのは頭を洗うと言う事。ね、いわゆるこの洗心洗脳させて頂いておるとです、見方が変わって来る。思い方が変わって来る。今まで腹立たしいことであったと、情けない事であったと言ったようなその問題がです。
その問題の言わば、実体というものがです、頭をすっきり洗脳させて頂いたその、すっきりとした頭で考えますと、直ぐ分かる。これが洗心、心を洗うと言う事になってまいりますとです、ね、そのことに対してお礼が申し上げられるようになる。ですから、そのためにはどうしても、今日私が申し上げますようにですね、世の中は、そんなに甘っちょろいもんじゃないと。
と言うその、なるほどニコニコして過ごさせるが一番よかろうばってん、そげんニコニコしてばっかりおられん。ともう決め込んでしまう、そういう思いをまず取り除かしてもろうて、本気で今日も、ね、ニコニコして過ごされる工夫をしなければいけん。それでもやはり苦い顔をしなければならない、目玉をぎょろつかせなきゃならないと、というような自分と言うものをです。
言わば鏡の前に見た時にです、これは洗心洗脳が足りんのだと、自分自身の改まりが足りんのだと。皆さんが朝、目が覚めると冷たい水で顔を洗う、私どんなもうどんなに寒かっても必ず頭のくべん、首の辺からジャブジャブかけて洗わにゃでけん。まぁ朝、目覚めて、目玉にだけんちょっとこう、水つけてから顔洗うた気持ちでおる人がある。そんなことじゃ、やっぱ洗脳にはならん。ね、
朝の御祈念にでもお参りをすると言うことは、これはやはり洗脳だと。朝の清々しい新鮮な空気を吸うて、ほれでお参りをさせてもらうというのですから、確かに洗脳が出来る。だからこの洗脳だけではいけん。やはり洗心が必要である、心を洗わなければいけん。昨日ある方が午後に参って来てから、久保山先生やら、それから秋山さんやら、秋山かずえさんやら、それで原さんやら、よく知った人、知った人なんですよ。
でも本当に、もうあの人たちは感心っち言うてからその、まぁ感心して話されるんですね。もう以前の、秋山さんを知っておられる方、以前の、久保山先生一家を知っておられる人、以前の、原さん達を知っておられる人達、それがだんだん、本当にこの幸せそうに、感じる、いわゆるどういう事かというと、もう物の見方考え方が、皆変わっておいでられておるという事。
それをまぁ信心の薄い私が見て本当感ずる、あげな風な見方考え方をすれば成程、幸せだという風に分かられると。ですからまぁ言うなら洗脳洗心が段々出来ていかれておる姿であるとこう思うのです。椛目に5年10年て信心を続けておられる方は、何がなしにその出来てはいきよるもっともっとです、もっともっと自分が助かるためにです、んならそういう信心のない人達の、から見ればそうかもしれないけれどもです。
自分自身が、そういうおかげを頂いておる、という事にもっと深く、もっと広く、本気でそのことに、取り組ませてもらうというか、その事に先行する、その事に専念する。したらもっと垢抜けして来るだろう、とこう私は思うです。そんな、それであなたもだからお伺い事の時だけ、お願いなる時だけお参りして来づに、もう時々朝の御祈念にでもお参りしておいでって。
もう皆あの、おかげ頂きに来よるとじゃ、もありますけれどもね、あの信心を頂きに来よるとですよ皆、今あんたが言われるその何人かの方達でも、やっぱり信心を頂きに来よんなさるから、あなたら見てからでも成程この変わって行かれるのですよ。だからおかげを頂きに来るというだけではなくて、信心を頂きに来なさい。言うてからお話した事です。それでよってここへお参りさせて頂くと、やはり心を磨く、ね、
改まらんならんといったような事を、頂きますからそうしてみるけれども、いっこうその、あら、スキット改まりが出来ん、そんな話しをしおりましたらです、私の心眼にです、丁度湯上りのような、あの、浴衣のようなもの着てから、まぁ行水しよんなさった所。その着物着たまま、たらいにつかってなさる所を頂いた。これではいけませんですね。例えばお風呂に入るということがです。
ただ、極楽極楽と言うようにその気持ちの良いためだけではなくて、やはり、その日一日の、疲れを癒すということだけではなくてです、やはり垢を落とすという事の二つのやはり目的というものがあるのです。信心もそうなんです。所がお互いの場合、丁度その方じゃないですけども、浴衣来たままお風呂に入っておるような事ではなかろうか。ただ気持ちは良い、けども垢は落としよらん。
お互いが着とるもんじゃけん。自分というものを赤裸々なところに出してないと言う事です。自分というものをもっともっと(?)本気でです、もう赤裸々な自分というものを、を見極めさせて頂く、そこからこれも取ってのぞかにゃいかん、ここも洗い落とさなければいけないという事、洗心ちゃどこをなら改まらにゃよかかと言ったら、洗い所が分からない人それがある。
だって磨くっちゃ、どこば磨くとですかっち言うて。自分が分からんから磨き所が分からん。ね、あんたが目玉をそんぎょろぎょろさせよっとこばいっちょ磨きなさいち(笑い)。あんたがその苦い顔をしよる所がいっちょん、その、その元を洗いなさい。あんたが悔やんでばっかりその、悔やまんならん元ばいっちょ追求しなさい。してみると、悔やまんでも済む、目玉ぎょろつかせんでも済むおかげが頂かれる。
私共がもっともっと赤裸々に、そりゃ自分が苦い思いをしたり、ね、不平不足の心が起こって来る時こそです、ね、その心の元を追求する気持ちにならなければいけん。そしてなるほど苦い、苦い思いをするけれども、その元が分からせて頂く事によって有り難い。1日の中に苦い思いをしなければならない、苦い、苦いと思うばっかりの、生活からです。苦い思いをするけれども。
苦い思いをさせて頂いて例えば、センフリを飲ませて頂けば胃が強なって行きよると。胃が強なって行きよるという事だけには、お礼が申し上げれるように、ね、何時もそれかというてですたい、ね、恵比寿さんやら大黒さんなごつ、何時もずっとニアッとしずうし続けけおかにゃいかん。その人が馬鹿じゃなかじゃろうかっち。ね、だから何時もにやにや、ニヤニヤニヤニヤニコニコじゃいかん。ね、
心の上に本当に和らぎ喜ぶ心。有り難いなぁと、自分のちょっとした心の動きにも有り難いなぁこういうこう言うことがこう言う風に思われる来ると言う事は、もう何ち有り難い事だろうか。昨日一昨日、外にあのかけて、ガラスごしに見えるでしょう、外にある菊の花がかけてある。丁度久留米のご大祭で、1日私が、朝から留守でございましたもんですから、小さい竹筒にささってあるから。
もう1日で吸い上げてしまうです。で夕方、私、愛子にそれちょっと、もうちがわん水が取れとろうち言うて、水がなくなってしまっとろうと言うて、愛子がこう(にげより?)ましたらもうカラカラになってから水、その濡れてもいない。葉も勿論だから、ジワッとなってしまっておる。そりゃ可愛そうな事したね。その可愛そうな事したねって言う思いが自分ながらもう有り難うしてたまらんです。
そりゃ惜しかったねっちうごたるこなこにゃこっちゃなかです。もう本当に可愛い、可愛そうな事したねって言うのが、その、私の気持ち。実感です。その、そういう、そういうような植物一つの上にも可愛そうの心が起これる、起こされるという自分が有り難い。から直ぐあのまた水切りし直してから、根を少し叩いて、ではよ水をさして、そして昨日いじって頂いたら今度は、ほんにそれが生き生きとして来た。
良かったね、もうその良かったというのがですね、そのそれがもう(うまくいくった?)と思うその心が自分で有り難うしてこたえん。本当に何時の間にこう言うような事の中にも、心の中に喜びを感じれれるようになり、ね、このくらいな事にでも、本当に何か知らんけども、私がもうちょっと迂闊しとったもんじゃから、済みませんとこう、お詫びするような気持ちが、生まれて来ただろうかと自分で思うくらい。
それはその事に専念しておるから何時も。そうでも一つおかげを頂かせてもらろうて、ね、何時も心の中に和らぎ喜ぶ心で過ごせたらそれが一番極楽じゃろうけれども、そんな訳にはいかんと決めてしまわずにです、その事に、な、そういうような状態になるためにはどういう信心させて頂いたら良いだろうかということをです、何時もそこに専念しとかなければいけん、何時もそれを思い続けとかなければいけん。
もうこう言うな事のあるとは当たり前、と言わずにです、ね、そして私共の毎日の中からです、苦い思いをする事よりも、なら不平不足を言うたりすること、時間よりもです、ニコニコと心の中に、自分で自分の心を拝みたいような心。我と我が心が拝めるような心の状態をです、段々広く大きくして行くと言う事に精進する。為にはまず、私共がです、洗脳洗心を心がけなければならん、ね、
朝参りでもさせて頂くと言う事を洗脳な、と言うならばですね、自分と言うものをもっともっと赤裸々に、自分と言うものを見極めさせて貰う、そこん所を本気で改まらせて頂こうとする所からです、ものの見方考え方が確かに変わって来る、改まらん前改まらん改まらない前の見方と、改まってこっちの見方と言うものは見方が違う。思い方が変わって来る。そこに私共のいわゆる生神金光大神 天地金乃神 一心に願え、おかげは和賀心にあると、和らぎ喜ぶ心というものがです。
だんだん私共の日常生活の中に大きく、そういう思いで過ごせれる場というものが広うなって来ることを楽しみに信心させて頂かにゃいけん。信心させて頂きよってもです。そこんところに焦点を置かなかったら何年信心しても同じ事。それはニコニコとして過ごせればそれが一番良かろうばってん、ね、人間の世の中というものはそんなにニコニコばっかりしちゃおれん、と言う風にその決め込んでしまっておるようなことはなかろうか、その辺をまず一つ、改めて行かなければならんと思うですね。
どうぞ。